解決できないものを見る
- 和弥 江川
- 2020年5月30日
- 読了時間: 3分

2014年6月。いじめにあってまもなく、私は仕事の合間をぬって信州へ旅をした。松本城、恩師のいる駒ヶ根に宿泊。草間彌生美術館にも行った。3日間の父子旅行だったが、今から思えば、彼は私に一生の思い出をくれた。
先生は「いじめ」をどう捉えているのだろう。どのように、向き合おうとしているのだろう。教師としての教育観は?私は、ずっと考えてきた。学校という場は、ここの先生の指導に支えられている。これまで見る中で価値観や教育観について、組織として考えている事実を見ることがない。
いじめ=悪いこと。不登校=心に問題のある子ども。このような図式が、検証されずに固定化している。違和感を組織の中に積極的に取り入れ、そこから学ぶことをしない。固定化された価値観で課題を処理しようとするので、先生の理解、力量に任されるところが多い。大きな組織ではあるが、教師一人一人の個人商店のようである。
私は、NPOの世界に20年あまりいると、すぐに解決できない問題だらけに取り囲まれている。子どもの貧困、多様な学びの構築をしていると、異質なものをいかに取り入れるのか?自分自信の在り方や価値観をいかに破壊してゆくのか?その担い手である人をいかに、育成できるのか?で課題解決の方向性が決まる。
子どもたちは、自分の人生を「良きものにしたい」「一生を生きる価値を創造したい」と思っている。(もちろんそこまで言語化されてはいない)はじめから、「死にたい」と思って生まれてくる子どもはいない。この大事な動機(思い)を教育の場ではどのように受け止め、育てようとしているのか、見えにくい。
いじめの問題も個人の「道徳」観の問題にすり替えられている。いじめの問題は、学校という組織が持つ構造の中で、教師と生徒の信頼感、教育の創造性を妨げる困難である。この問題を真正面から取り上げて、生徒と一緒に考えて行動してゆけば、課題は構造的に解決してゆくことができる。
実際にある困難を、自己超越的な精神論で、解決しようとする?と物事の構造を冷静に把握しなくても、努力と根性で「全員がいい人」になったり、「ダメなことはダメ」で終わってしまう。問題は、ダメなことはわかっていても、賭博やアルコール依存、薬物依存は生まれる。DV、虐待も、行う側はやってはいけないという知識は持っている。家族の中の弱いものに暴力を振るうことを、正義、もしくは教育的な行(しつけ)だと思うから心のどこかの肯定感に支えられて暴力を行う。
いじめのメカニズムは、違和観、スッキリしないモヤモヤ感を受け止めることからはじまる。あらゆる関係者が、対話してゆくことで感情の問題が、自分の気持ちと向き合う思考の問題に転換できる。この過程をつくる事の放棄から「いじめ」が生まれるという仮説を私は持っている。誰もが答えは一つではないので、様々な受け止めがあって当然。その受け止め方次第で、柔軟な改善ができる。違和感を大事にする文化を学校が持てているのか?
掃除機のダイソンを開発するときに、5,000回あまりも試作品をつくったと言われている。改善すべきは何か?を常に考えてつくりなおす柔軟さと意欲こそ知的な体力だと私は思う。決して自己超越的な精神論を身につけて暴力的に解決したわけではない。様々な事実から、試行錯誤をひたすら重ね、納得した製品ができるまで改善しただけである。それは精神論とはほど遠い、淡々とした営みだろう。学校は、そもそも創造的な場所である事、を放棄してはいけない。
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